約25年ほど前に通った高校への通学路の脇に陸軍墓地がありました。
記憶にある限り1度だけ、当時の友人と敷地内の広場で弁当(お菓子?)をベンチで食べたことを覚えています。
以前、静岡市の大正時代の古い地図を眺めながら、城東町にあった「歩兵第34連隊練兵場跡」を訪問してみました。
その際に、橘中佐の墓地が沓谷の静岡陸軍墓地にあることも知りました。
また、第一次世界大戦の際に日本軍の捕虜となったドイツ人兵士も当地に埋葬されているということでさらに興味をもち、カメラ片手に立ち寄ることにしました。
墓地は夏が似合いますね。
静岡陸軍墓地とは
アクセス
駿府城から東につづく通称北街道(県道67号)の沓谷の蓮永寺の南に位置します。
北街道に蓮永寺の門が面しており、門の右側の道が陸軍墓地へ続いています。
冒頭の「陸軍墓地参道」の石碑は、上記写真の脇に立ち、訪問したのは8月初旬の晴天ですが、中心の広場以外は木々が鬱蒼としています。
墓地の概要
その名の通り1897年に設置された主に旧日本陸軍の兵隊さんたちの墓地です。
日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦没者の墓や慰霊碑が点在しています。
陸軍の墓地は、およそ3段に分かれていて、最も上段が大佐、中佐、少佐の墓、中段が大尉、中尉、少尉の階級の墓、最も下段が二等兵などの下位のお墓という作りです。
死後の墓地まで階級に沿わなくても…という気もしますが、軍隊は死後も階級社会のようです。
上記写真の手前が中段の大尉、中尉、少尉クラス、左手奥の一段高いところが少佐以上の階級の墓です。
橘周太中佐の墓
少佐以上のお墓は5基あり、左から2番目が橘周太中佐の墓石です。
橘周太中佐は、明治時代の軍人で日露戦争で戦死、以降は軍神として尊崇される静岡にゆかりのある方です。
お亡くなりになったのは39歳だったようです。
経歴はWikipediaで概要が確認できます。
5つある墓石の中心には「陸軍保形大佐正六位 関谷銘次郎之墓」と刻まれています。
関谷銘次郎大佐(連隊長)も明治37年に橘周太中佐(第一大隊大隊長)と日露戦争で戦死されています。
関谷銘次郎大佐の方が位が上ですが、橘周太中佐の方が名が知られている(人気があった)理由は分かりません。橘中佐という軍歌にもなっています。
ドイツ人捕虜墓石
グスタフ・マタイスの墓
陸軍軍人の墓石群の片隅に、馬蹄形の墓石がひっそりと立っています。
今回調べて初めて知ったのですが、第一次世界大戦中の1914年「青島の戦い」で約4,500名のドイツ兵が捕虜となり、日本国内の12カ所の捕虜収容所に収容されました。
その中の1つが静岡捕虜収容所でした。
場所は追手町にあったようで、調べてみたところ場所もおおよそ特定できたので、別記事にしてみたいと考えています
静岡収容所で捕虜として捕らえられていたドイツ人の砲兵、グスタフ・マタイス(Gustav Mathais)氏は1915年4月13日に死亡(病死)し、当地に埋葬されました。
そのドイツ人の墓石が現存しています。
墓石の中心には氏名である「Gust Mathais」と刻まれています。
当時のドイツ兵捕虜の情報は少ないのですが、以下の「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のサイトに情報がありました。
一部引用させていただきます。
グスタフ・マタイス(Gustav Mathais(Matheisとも);1895-1915):海軍膠州砲兵大隊第2中隊・2等砲兵。1915年4月13日静岡で死亡し、静岡県安倍郡千代田村沓谷(当時)の陸軍埋葬地に埋葬された。この埋葬地には、日独戦争における戦病死下士卒の慰霊碑「大正三、四年戦役戦没戦病死下士卒碑」が建立されている。題字は青島攻囲軍司令官神尾光臣中将の書になる。埋葬地(約2200坪)は、現在も旧陸軍墓地として護られている。墓石は大正7年頃建設された。高さ二尺六寸、幅二尺四寸五分、奥行き九寸の馬蹄型の墓碑には、「祖国の英雄として没した2等砲兵グスタフ・マタイスここに永眠する」の銘文が刻まれている。
グスタフ・マタイスさんは20歳で亡くなられました。
遠い異国の地で亡くなったドイツ人の若者に、手を合わせて参りました。
サッカー王国静岡の遠因
当時静岡の捕虜収容所には83名が収容されており、1914年開設から1918年閉鎖までの4年ほどの短期間でしたが、ドイツ人たちは隣接した師範学校の生徒たちとサッカーに興ずることもあったそうです。
サッカー王国静岡の理由はいくつかあると思いますが、1つにはドイツ兵の捕虜が本場のサッカーを先生の卵である師範学校の生徒に教えたことがあるといえます。
現在は静岡のサッカーはどちらかというと個人プレー(南米系)のサッカーで、あまりヨーロッパの組織的なサッカーではないような気もしますが、時代と共に変化したと思うことにします。
静岡陸軍墓地の訪問して
現在は、静岡市と地元の町内会が管理されているそうです。
ただ、訪れる人も少ない印象で、写真からも分かるかと思いますが、あまり人の手が入っている印象はありません。
当時を知る人も減り、親族も疎遠になってしまうことも致し方ありません。
護国神社や靖国神社で丁寧に祀られてのをみていると、少し差を感じてしまいます。
ご遺族の意向など色々難しい問題もあるかもしれませんが、合祀という形で神社などに納めていただくのも一つの方法かなと感じました。
夏場は蚊が大量に発生していましたので、訪問の際には虫よけ必須です。
コメント
以前、ドイツ兵俘虜について調べていた者です。陸軍墓地の記事、興味深く拝読致しました。
静岡収容所は追手町と鷹匠町の2ヶ所にあったようです。小規模な収容所でしたがサッカーや技術指導等の日独交流がありました。
内野さん。コメントありがとうございます。
静岡収容所は鷹匠町にもあったのですか。初めて知りました。
追手町の収容所は現在のシズウェル(静岡県総合社会福祉会館)あたりにあったと思われます。当時は警察署も隣接していたようですね。
ドイツ人捕虜から製法を教わったパン屋が呉服町にあったようですが、現在は探してみましたが無くなっていました。また、いろいろ教えてください。