江戸時代以降そこそこの都市であった静岡市に遊郭があった、またはあったであろう、ことは想像に難くないと思います。
私自身、あっただろうなあ、でもどこに??というモヤモヤっとした心持があったのですが、特に調べもせずこの年齢になってしまいました。
一昨年、静岡市に帰郷したため、少しずつ郷土の歴史(特に市井の人の暮らし)に興味を持つようになり、ゆるく調べておりました。
最近、小長谷澄子さんという方が昭和50年代の取材をもとに書かれた「静岡の遊郭 二丁町」という本を見つけamazonで購入したところ、かなり当時の様子が分かり、それでは現在はどのようになっているのかという素朴な疑問を元に現地を訪れてきました。
静岡の遊郭は二丁町(厳密には安倍川町)にあり、現在の駒形5丁目の一部で営業していました。
現在の静岡県地震防災センターを中心としたおよそ二丁(109m)のエリアです。
駿府城から、まっすぐに西に七間町通り~駒形通りが連なっており、安倍川の船の渡しまで続いていました。
その東岸に二丁町ができたことは人の往来を考えると自然な気もします。
また、現在の安倍川橋の東西にあたる弥勒や手越周辺にも遊女屋があったようです。
実際に現地を訪れてきましたが、当時を忍ばせる施設や店舗などはほとんどなく、その区画の跡に思いを馳せることしかできませんでした。
幕府公認の遊郭二丁町
当時、遊郭のあった場所の一部に稲荷神社という神社が建っています。
昭和初期の地図からすると、三河楼、もしくは小松楼という楼閣があった場所のようです。
その稲荷神社に、「石碑」と「双町の碑の由来」という看板が立っています。
その「双町の碑の由来」に二丁町の歴史が書かれています。
「双街とは、二丁の町という意味である。
江戸時代の初期、長い戦国の時代を経て住民の気持ちがすさんでいるころ、この駿府のまちでも男女野合の悪習が盛んに行われていた。
徳川家康は晩年大御所として駿府城で余生をおくつたが、その頃の駿府は江戸に次ぐ都として繁栄を極めた。
家康は住人の気持ちを和げ、またこの悪習を正すため揚屋町ほか、七ヶ町にこれを区画し京都伏見から遊郭を誘致したが、元和元年間に五ヶ町を江戸吉原に移した。
その後この二町の遊郭は昭和の時代まで続き、昭和三十二年法律により廃止された。
この碑は、この街に働いた女性たちの労に思いをはせ、双街の由来を記すため昭和二十七年十一月に当時の静岡県知事小松英太郎氏の題字により、地元の人たちが建立したものである。」
江戸幕府が成立した直後に「男女野合の悪習が盛んに行われていた。」ため、管理するために公営の遊郭を設置したという経緯のようです。
にしても「男女野合の悪習」とはすごい表現ですね。
石碑の方は、最初の方が削られてしまっている、かつ、私に学がないので読めないのですが、おおよそwikipediaの記載の内容が書かれているそうです。
跡地
廓内にはいくつかのお店(妓楼)がありましたが、ランク付けされていて第一級のお店は「蓬莱楼」であったと記されています。
その「蓬莱楼」などの妓楼には本店、支店というグレードがあり、料金やサービスが異なっていたそうです。
※支店の方が低価格
現在、静岡県地震防災センターがある敷地の北側が「蓬莱楼」の本店・支店が並んでいた場所で、当時の面影はまったくありません。
写真は蓬莱楼跡地
上記、蓬莱楼の道を挟んで向かい側に「音羽楼」「初音楼」がありました。現在は公園となっています。
周辺をぐるっと、歩いてみましたが、昭和初期の地図にある料理店、酒場、射的屋など全くと言っていいほど当時の名残は感じられなくなっています。
ただ、本の中でも著者が取材した岡村美容院さんが現在でも営業されています。
※場所は戦後少し移動されたと思います。
恐らく、取材当時のご年配のご婦人のお子さんかお孫さんにあたると想像されます。
こちらでは当時、芸者衆やお店の人がお客さんだったそうです。
「静岡の遊郭 二丁町」の本
この本の始まりは、著者の小長谷澄子さんの叔母が二丁町で娼妓として働いていた過去から、その叔母がどのような人生を送ったかを知るために、昭和50年代に妓楼の関係者に取材をして書かれたものです。
楼主とよばれるオーナーや元娼妓、当時の女学生や美容院など様々な方に取材をされています。
当時の廓内の様子や、制度、待遇、文化など垣間見ることができます。
ご興味のある方はぜひお手に取ってみてください。
駒形通り~七間通り
少し東に足を延ばすと「桜湯」という銭湯があります。
昭和2年創業で、二丁町と同時代に営業していたことになります。
静岡市内に銭湯は、浅間さんの天神湯と桜湯のみとなりました。
二丁町が戦争で焼けてから、73年。
町は想像以上のスピードで変わっていきます。
変化は悪ではありませんし、時代によって適した場所・サービスに移り変わっていくことは当然です。
ただ、たった70年前の人々が暮らした生活の香りを、少し楽しみたいという私自身の心持が、街の変化のスピードに追い付いていないようです。
コメント
大正時代に静岡にいたドイツ人捕虜が無断で二丁町遊郭に上がって、結局逮捕されてしまうという事件もあったようです。