とぼとぼと一人で居酒屋で飲むのが割と好きで、以前はふらりと飲んで帰ることもありました。
小さいカウンターで隣の席のおじさん(私もおじさんですが)と、探りを入れながらとりとめのない話をしたり、地元の噂などを聞いてふんふんと頷いたりしています。
最近、以前時折訪れていた小さな居酒屋が閉店の張り紙がしてあり、哀しさの反面、コロナの影響もあり足が遠のいていたことは確かで、随分わがままな哀しみだと自省したりしておりました。
「大将、正雪を冷で1合ください」
地元のお酒で、種類も豊富、お値段も割合手頃で味も良い。私としては正雪は困ったら頼む日本酒という位置づけです。
県内の居酒屋で「正雪」はかなり扱いの多い日本酒の醸造元だと思います。
多くの店で取り扱いがありますね。
正雪は静岡市清水区由比の株式会社神沢川酒造場が造るお酒で、由比にある神沢川の水を源としています。
「正雪」と聞いてピンとくる方も多いと思いますが、お酒の由来となった正雪の由来を少しひも解いてみます。
美形悪役「由井正雪」
正雪は江戸時代の人物「由井正雪」に由来します。
由井正雪は駿府生まれ(静岡市)江戸時代初期の軍学者で「慶安の変」(クーデター)の首謀者で、慶安の変の決行直前に密告され、駿府の宿に滞在中に捕物に囲まれ自害しています。
その後、安倍川の河原にさらし首となり、市内のお寺に埋葬されています。
正雪は現在の東京都新宿区に張孔堂という軍塾を開いており、門下生が数千人も在籍していました。
当時は多くの大名が幕府によって取り潰され、食えなくなった武士たちの浪人化が社会問題になっていました。
優秀な軍学者あり、大名や幕府から役職のお誘いがありましたがそれを断り、幕府に否定的な立場で活動していたようです。
そのため、幕府に不満を持っている浪人からの人気もあり、それらの不満分子をまとめ、幕府転覆のクーデターを画策し、結果失敗に終わりました。
後世では漫談や小説などで、美形悪役として描かれることも多い人物です。
幕府(政権側)から見れば、お上の盾突く反逆者ですが、時代のうねりの中で自身の正義や信義を貫き、儚くも自害という結末を迎えた正雪に、当時も後世の民衆も、ある種の共感と痛快さを抱く対象となっているように思います。
洋の西・東を問わずこういった人物は民からは愛されるように思います。
由井正雪の生まれ
由井正雪は駿府の生まれではあるようですが、生誕地には2説あります。
1つは、駿府宮ケ崎(現静岡市葵区)
1つは、駿河由井(現静岡市清水区)正雪紺屋として現存
です。
地名との共通や前述の日本酒の影響、生家の紺屋が現存することなどから駿河由井生まれの方が広まっているように感じます。
正雪紺屋
数年前に正雪紺屋に伺ったことがあります。
ちなみに紺屋とは染物屋のことで、藍染め(紺色)が染物の代名詞だったため、このように呼ばれます。静岡市葵区にも紺屋町がありますね。
由比にある正雪紺屋の店舗
案内書き
自害の後
静岡市葵区沓谷にある臨済宗にある菩提樹院に正雪の首塚とされる塔が建っています。
さらし首の後、縁者(女性?)が引き取り、当時は常盤公園の位置にあった菩提樹院に埋葬したと伝わっています。
菩提樹院は先の大戦の空襲で焼け、戦後、現在の場所(葵区沓谷)に移転されました。
谷津山の北東部、葵区沓谷には複数の寺院が狭いエリアに建てられています。
戦後の区画整理で、こちらに集められたようで、林立といっていいほど多くの寺院が密集しています。
また、弥勒緑地に由井正雪公之墓址が建っています。かつてこのあたりの河原に処刑場があり、慶安の変で正雪の親類なども40名以上が処刑されました。
幕府転覆の罪の重さがどれほどであったかを窺い知ることができます。
正雪の首もこの周辺に晒されたと考えるのが自然です。
「由井正雪公之墓址」上記にちなんで明治期に建てられた石碑のようです。
辞世の句
「秋はただ
馴れし世にさへ
もの憂きに
長き門出の
心とどむな
長き門出の
心とどむな」
私自身、由井正雪という人物が実際にどのような人物であったのか、時代背景など分からない(知らない)ことが多いです。
ただ、居酒屋で「正雪を1合ください」と注文するたびに、なんとなく約400年前にこの地で生き、自害していった軍学者を思い出しています。
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